「ナマケモノって、あんなにどんくさいのにどうして絶滅しないんですか?」
動物学者にしてナマケモノ愛好協会代表であるわたしは、しょっちゅうそう問いかけられる。
「どんくさい」がより細かく定義されていることもあり、いつも変わらず好まれるのは「ぐうたら」、「バカ」、「のろま」だ。質問にはこんな補足がついていたりもする。「進化って、要するに『適者生存』のことだと思っていました」。そう口にする相手は戸惑いの表情を浮かべていることもあれば、自分たちのほうがより優れた種だという傲慢さを漂わせていることもある。
そんなふうに訊かれるたびに、わたしは深々と息を吸って、精いっぱい落ちつきを保ちながら、ナマケモノはどんくさくなんかありません、と答える。どんくさいどころか、自然界に最もユニークな方法で適応した動物の一種で、非常にうまくやっているのだ。木の上を移動する速度はカタツムリ程度、全身を藻類で覆われ、虫にたかられ、週に一度しか排便しないというのは、たしかに憧れを集める生きかたとはいえないが、そう批判するわたしたちは中南米の過酷な森で生き延びようとしているわけではない。いっぽうナマケモノは、そんな環境で巧みに命をつないでいる。
動物を理解しようとするとき、鍵になるのは背景だ。
ナマケモノがぐうたらに見えるのは、極限まで耐久力を高めようとしているからだ。彼らは低エネルギー生活のお手本で、環境に適応するため何百年もかけて磨きあげたエネルギー節約のスキルの数々は、史上最も風変わりにして創造性豊かな発明家の名前にふさわしい。でも今、そのスキルの全貌を明らかにするのはやめておこう。ナマケモノの創意工夫に満ちた暮らしぶりについては、第三章で詳しく述べている。ここでは、わたしには形勢不利な動物の味方をしたくなる癖があるとだけ言っておこう。
ナマケモノの評判の悪さを見かねて、わたしはとうとうナマケモノ愛好協会を設立してしまった。(協会のモットーは「速いからって威張るな」)散々こき下ろされる彼らの意外な真実を伝えようと、各地を回って講演を重ねた。ナマケモノが悪く言われるようになったのは、十六世紀の探検家たちに原因がある――もの静かな菜食主義者および平和主義者であるナマケモノに、わざわざ「地球上に存在する最も愚かな動物」という烙印を押した男たちに。本書はわたしのこれまでの講演と、正確な事実を伝える必要性から生まれた。ナマケモノだけでなく、ほかの動物に関する真実も伝えていきたい。
わたしたちはどうしても、人間のごく限定された生きかたというレンズを通して動物の王国を眺めてしまう。ナマケモノの樹上生活はたしかに変てこで、ほかの動物とくらべて誤解が生じやすいのも無理はないが、彼らだけがおかしいというわけではない。動物の生態は千差万別、わたしたちの知らないことだらけで、一見単純な話でさえ複雑な背景を理解しなければいけないのだ。進化という名の神は論理を欠いた不可解な動物たちをこしらえ、ろくに理解の手がかりも与えないという悪ふざけをする。鳥まがいのコウモリという哺乳類。魚まがいのペンギンという鳥類。謎に包まれた生殖活動をおこなうウナギに至っては、二千年に渡って人類を姿の見えない生殖腺探しに駆りたて、狂気の淵まで追いつめた。今でもウナギ研究者たちは、その淵のあたりをさまよっている。動物はそう簡単に秘密を明かしてくれない。
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ダチョウにしてもそうだ。一六八一年二月、イギリスの知の巨人サー・トーマス・ブラウンは、宮廷お抱えの医師だった息子エドワードに手紙を書き、いっぷう変わった願いごとをした。エドワードはモロッコ王がチャールズ二世に贈ったダチョウを一羽、下賜しされたところで、熱心な博物学者のサー・トーマスはその大きな舶来の鳥に強い興味を抱き、生態について報告してほしいとねだったのだ。ガチョウと同じくらい用心深いのか? スイバは喜んで食べるが、ローリエは嫌うというのは本当か? 鉄は食べるのか? 三つめの問いについては、ソーセージロールのごとくパンで鉄を包んで実験したらどうか、とサー・トーマスは親切にも息子に助言した。「鉄のままでは食べないかもしれない」
奇妙なレシピの提案にも、ちゃんとした科学的な意義はあった。サー・トーマスはダチョウがどんなものでも胃に収め、鉄さえ消化してしまうという昔からの言い伝えを検証したかったのだ。ある中世ドイツの学者によると、ダチョウは悪食もいいところで、「教会の扉の鍵や蹄鉄を平らげた」という。ダチョウはイスラム教国の首長やアフリカ大陸の探検家からの贈りものとして、ヨーロッパの宮廷によく登場したので、歴代の熱心な科学者たちがこの異国の鳥にハサミ、釘、そのほか金属類をどっさり与えていた。
一見して正気の沙汰とは思えない実験だが、一皮めくれば科学者たちもそれほど的外れなことをしていたわけではなかった。ダチョウは鉄などを消化できないかわりに、鋭くとがった巨大な石を呑みこむことがある。理由は以下のとおりだ。世界最大の鳥類ダチョウは、長年をかけていささか変わった草食動物に進化し、消化に悪い草や灌木を主食にするようになった。そのいっぽう、同じアフリカの大地で植物を食べて過ごすキリンやレイヨウと異なり、反芻のできる胃袋は持っていない。歯さえ生えていないのだ。おかげで彼らはくちばしを使って地面から繊維質の草をむしり取り、丸呑みしなければいけない。では、筋ばったご馳走はどうするのかというと、消化器官の一つである砂肝に呑みこんだ石が溜まっているので(科学的には「胃石」と呼ばれる)、それを使ってすりつぶし、消化しやすい形状に変えるのだ。体内に合計一キロもの胃石を抱えてサバンナを闊歩していることもあるダチョウを理解するにも、やはり大切なのは背景だ。
それと同時に、科学者が何世紀もかけて動物の真実を追い求めてきた背景も理解してやらなくてはいけない。サー・トーマスのようないささか風変わりな動物マニアが、本書にはほかにも大勢登場する。十七世紀には自然発生説にもとづき、糞の山にアヒルの死骸を載せてカエルを作ろうとした物理学者がいた(当時はそんな生命のレシピが流行していた)。また、あるイタリア人の神父は「007」シリーズの悪役にぴったりのラザロ・スパランツァーニという名前で、振る舞いもその響きにふさわしく、科学の名のもとにハサミを駆使して動物の被験者にオーダーメイドのズボンを作ったり、耳を切断したりしていた。
彼らはまだ啓蒙時代が始まって間もないころの科学者だったにしても、より最近の科学者も、真実を求めて変てこで誤った手段に頼ることがあった。たとえば二〇世紀のアメリカ人精神薬理学者は、好奇心のおもむくままゾウの群れにアルコールを与えて泥酔させ、案の定ひどくおぼつかない実験結果を得た。いつの時代にも妙ちきりんな研究者が絶えることはなく、これからもそういった人間は大勢あらわれるだろう。人類は最小単位といわれた原子を分割し、月を征服し、ヒッグス粒子の存在を突き止めたが、動物を理解する道のりはまだ長いのだ。
これまでの道のりで人間が犯してきたあやまちに、わたしはひどく興味をそそられる。知識の穴を埋めようとこしらえられた神話も魅力的だ。それらは新発見が成立する過程と、発見に関わった人間の思考形態についていろいろと教えてくれるからだ。カバが皮膚から赤い液体を分泌するのを見た大プリニウスは慣れ親しんだ理屈、すなわちローマの医学に答えを求め、健康を保つため瀉血しているのだと考えた。瀉血とは血液を体の外に出すことで症状を改善するという治療法で、現在は効果を否定されているものの、ローマ時代は一般的だったのだから無理もないだろう。大プリニウスは間違っていたが、カバの赤い「汗」をめぐる真実は古い神話に負けず劣らず不可思議だ。おまけに実際、その液体は健康に効果があるといえるのだ。
動物をめぐる大いなる誤解の数々にメスを入れていると、微笑ましい理屈が姿をあらわしてくる。世界の大半が謎に包まれていて、何が起きても不思議ではなかった時代にタイムトリップし、どこまでも素朴だった当時の精神にふれたような気分になる。渡り鳥が月に行ってはいけない理由はなんだろう。ハイエナは季節ごとに性転換するかもしれないし、ウナギが泥から生えてきたってかまわないではないか。のちに明らかになる真実も、同じくらい突飛なのだから。
最高にナンセンスな動物の神話が続出したのは、ローマ帝国が崩壊し、誕生したばかりの博物学がキリスト教に乗っ取られた中世だった。当時は動物が主役を務める物語の花盛りで、動物の王国を解説したこのころの本は、想像力を問われる図版と不可思議な動物の宝庫だ。たとえばツバメラクダ(現在のダチョウ)、ラクダヒョウ(現在のキリン)、ウミノシキョウ(半分司教で半分魚の生きもの)などが登場する。これらの物語に、動物の生態を明らかにしようという深い意図があるわけではなかった。どの物語もたった一冊の資料、すなわち四世紀の教本『フィシオロゴス』を典拠としていたが、それは民話に一握りの事実をまぶし、宗教的寓意を大量に混ぜたようなしろものだったのだ。『フィシオロゴス』は中世において聖書に次ぐ大ベストセラーになり、十を超える言語に翻訳され、エチオピアからアイスランドまで途方もない動物の伝説を広めた。
『フィシオロゴス』はセックスと罪に関するみだらな逸話の宝庫で、教会の図書室に置くために写本し、挿画を描きながら、修道士たちはさぞかし楽しんでいたことだろう。不可解な動物たちが次から次へと登場する。口から受精し、耳の穴から出産するイタチ。すさまじい臭いのおならで狩人を撃退するバイソン(中世の名称は「ボナコン」)。狩人たちは朦朧としながら引きさがったという(似たような経験は誰しもあるだろう)。発情期にひととおり性欲を満たすと、ペニスが抜けかわる牡ジカ。そこには少なくない数の教訓が含まれていて、動物寓話という形で大勢の教区民に伝えられた。なんといっても、神が創造したすべての生命のうち、人間だけが無垢を喪失したのだ。写本に携わった職人たちにとって、動物の王国とは人間を教え導くための存在だった。そんなわけで彼らは『フィシオロゴス』の記述の正しさを検証するかわりに、動物の中に人間的な性質を、その行動の中に神が紛れこませた道徳的な規範を見出そうとした。
おかげで寓話に登場する動物のいくつかは、およそ原形を留めない。たとえばゾウは最も貞節にして賢明な動物とされ、「優しくおとなしい」のでゾウだけの宗教を持っているとされた。ネズミのことを「ひどく憎む」いっぽう、郷土愛に満ちていて、母国のことを思い浮かべるだけで涙を流したという。性的なことがらに関しては「最も貞節」で、三百年という長い一生を通して伴侶に忠実だとされた。不貞を忌み嫌い、そのような行為に耽っている仲間を見つけたら罰を与えたそうだ。一夫多妻制を謳歌している平均的なゾウが聞いたら、腰をぬかすことだろう。
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動物を人間の鏡として扱い、教訓を引きだしたがる傾向は、啓蒙主義の時代を迎えてもいっこうに絶えなかった。このジャンルにおける最大級の罪人で、なおかつ本書における最大級のスターといえば、高名なフランス人の博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン伯だろう。偉大なる伯爵は科学革命を代表する人物で、教会の影響のもとにあった博物学を独立させようとした。そのいっぽうで彼の遺した全四十四巻の事典は、滑稽なほど宗教にどっぷり浸かった書物で、当時の解説文の形式にのっとって書かれた華麗な散文は、科学的分析というより通俗小説のようだ。その生きかたが気に入らないナマケモノのような動物は「創造物のなれの果て」と容赦なく切り捨て、お眼鏡にかなった動物は大げさなほど称賛した。どちらの種類の記述も微笑ましいほどでたらめだ。ビュフォン伯はビーバーを一匹飼っていて、第二章で詳しく紹介するように、その勤勉ぶりにいたくご満悦だった。でも真実を知ってしまえば、偉大なビュフォン伯もただの道化にしか見えなくなるだろう。
動物を擬人化したいという欲求は、現代でもよく見られる。パンダのたまらない愛くるしさについ保護本能を刺激され、冷静な判断力を失ってしまうというようなことだ。パンダは不器用でつつしみ深く、人間の助けなしには生き延びられないというわけだ。でも実際のところ、彼らは強力な顎をもつサバイバルの達人で、乱交を好む。
わたしは九〇年代前半に、偉大な進化生物学者リチャード・ドーキンス博士のもとで動物学を学び、生きものどうしの遺伝子的な類似性をもとに世界を構築する方法を教わった。その共通性の程度によって、行動パターンも似たり似なかったりするというわけだ。ただし、わたしが学んだことの一部は最近の研究によって既に更新されていて、ゲノムが細胞レベルで読みこまれる過程そのものも、その内容と同じくらい重要だとされている。人間とギボシムシはDNAが約七十パーセント一致しているのに、人間だけがパーティの席で冗談を飛ばすことができるのはそういうわけだ。つまりわたしを含む歴代の科学者が、先人より動物のことをよく知っていると自負しているものの、本当はまだわかっていない事柄も多々あるということだ。おおかたの動物学は、知識にもとづいた当てずっぽうといってもいいだろう。
ただしテクノロジーの進化のおかげで、その当てずっぽうも精度を増している。わたしは自然に関するドキュメンタリーを作ったり、TV番組の司会を務めることがあり、おかげで真実を掘りおこそうと最前線で研究にあたる世界の科学者たちに会う機会に恵まれた。マサイマラ国立保護区では動物のIQテストを行う科学者を取材し、中国では「パンダ・ポルノ」の商人に話を聞き、ナマケモノのお尻の穴に突っこむ体温計(ちゃんと科学的な意図がある)を発明したイギリス人や、世界初のチンパンジー語辞書の編纂に取りくむスコットランド人にも会った。わたし自身、ヘラジカはアルコール依存症という噂の真偽を追い、ビーバーの「睾丸」をかじり、カエルが原料の媚薬を飲み、ハゲワシの群れと空を飛ぼうと崖から身を投げ、片言のカバ語を口にした。こうした経験のおかげで、動物の知られざる真実の数々に触れ、動物科学の現在地を実感することができた。以降の章では動物に関する驚きの事実を紹介しつつ、偉大なるアリストテレスからウォルト・ディズニーのハリウッドの末裔まで、さまざまな人間が生みだしてきた動物の王国に関する大いなる誤解、誤謬、神話を一挙公開し、本書を「誤解された動物たちの庭」としたい。
それでは、奇想天外な物語をお聞きいただこう。ただし、すべてが本当の話とはかぎらないのをお忘れなく。